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~ 勢いに任せての継ぎ足しなので永遠に未完成 ~
保育園
キュウリが嫌いだったのだけれど(今もだし、恐らくこれからもずっとだが)、給食の後もずーーーっと教室の隅っこに追いやられて残ったキュウリとにらめっこしていた忌わしき記憶くらい。
小学校
小学校時代は学校の中だけで言えば、中の上辺りの成績。
思い出といえば、四年生の時、学芸会の主役。
「一本のローソク」初めて日本にローソクが来たときにこれは深海魚だとかてきとうなことをいう知ったかぶりの庄屋さん。
当時、国語の教科書を暗唱する趣味があって、ながーーーいセリフを覚えられる人ってことで人選された。
我が家にテレビが来たのは小学4年生くらい(1982年あたり)と思う。ゆえにそれまでTVを見る習慣がなく、近所の友達の家でちょこっと鉄腕アトムやら仮面ライダーやらを見ていたくらい。
それまで家の中ではラジオとかレコードの昔話が鳴っていたのを覚えている。
この頃にイメージを膨らませる習慣ができたのかも知れない。
宿題以外の勉強は特に無し。でも、本はよく読んでいた。
メインは学研の科学と学研の学習の2冊。
毎月これは楽しみにしていて、おばさんが届けてくれるんだけど一日でも早く読みたくて発売日になると配本担当のおばさんの家まで取りに行っていたのをよく覚えている。確か、4年くらいまで1冊350円。50円ずつ値上がりして6年の時は1冊500円だったかな。
図書館は毎週土曜日の書道の後、自転車で20-30分の図書館へいくのが決まりだった。シートン動物記、シャーロックホームズ全集なんかを好んで読んだ。
家で買ってもらった本は、椋鳩十全集26巻、マンガ日本の歴史15巻。小学校時代の僕の教育費といえば、これらの雑誌と書籍費くらい。全部合わせて10万円をこえることはまずない。
習い事は書道だけ。6年生までやってた。
通信教育を少しやったが小中高と塾には行ってない(家庭教師あるわけない)。
正確には中2のとき、公文式に1ヶ月くらい通ったが1+4=みたいなメチャクチャ簡単な問題をメチャクチャたくさんやるっていうスタイルに馴染めず、すぐに撤退。
小学校6年生の時にファミリーコンピュータが登場。本格的なゲームボケ時代の到来。
中学生
中学では近所の一学年上の幼なじみにならって陸上部に入ったけど足は遅かった。
秋に鉄棒から落ちて腕を骨折したのを機に帰宅部でゲームに明け暮れた。
下校途中にある小さなゲームセンターによく行った。
サーカスっていうシーソーで人間を跳ばして風船を割りまくるゲームが得意だった。10円でながーーーーーーーーーーーーーーく遊べるコスパ最高のゲームだった。
ファミコンでよくやってたのはドラゴンクエスト、ロードランナー、スーパーマリオなど。
チャンピオンシップロードランナーっていう穴堀りアクションパズルは全国で18番目に全面クリアした証明書をもらった。
英語は全くわかってなくて、DoとDoesの使い分けを理解したのが中3の冬。普通であれば中1の1学期の履修内容だけど。
家から一番近い公立高校専願だった。地元ではわりと良い方っていう山口県立豊浦高校。
家から自転車で通える公立、ということで父親が決めた。
もっとも中学の担任は不合格の太鼓判を押していた。
もし、落ちていたら恐らく父の建築現場で土木作業に従事していたであろうことは想像に固くない。
高校時代
中学3年の冬、100%独学でバク転を習得したので高校では体操部に入った。かつては全国優勝もした強豪といわれる部だった。
帰りがけ、東大合格体験記を本屋で立ち読み、衝撃をうけて買ってしまったところから物語は幕を開ける。
東大に行くと勝手に決めた。もちろん周りに東大に行った人なんて居なかった。
というより、そもそも私の周囲には大学に行った人がいない。
私を含めて、6人兄弟だが大学と名がつく学校に行ったのは私だけ。
親戚、知人に大学(東京大学じゃなくて、ウンコ大学も含めておおよそ「大学」と名がつく学校)に行った人は居なかった。
さらにいいますと兄弟どころではなくて、血縁たどりまして、親戚で4親等(従弟まで)の範囲には大学生ゼロ。従姉の娘(5親等)にやっと1人、大学生がいる。
父親は北海道の山奥育ちで小学校もまともに行ってないから、「今日わ公園え行く」と書いていた。
教員を除けば、高校卒業までに出会った人で大学生及び大卒の人(もう一度確認で東大ではない、念のため)は高校でこっそりバイトしたホテルレストランで一緒だった地元の女子大生りかさん、一名のみ。
豊浦高校は東大を受けた人が5年前に1人、みたいな高校。
その高校で1年生5月の中間試験は360人中323番。
ここが私の東大受験スタート地点。
そこから塾・家庭教師なし、完全独学で東大受験ラインまで駆け上がった。
エール出版の「私の東大合格作戦」が東大受験のきっかけだった。たぶん今も毎年出ている本だと思われる。部活の帰り道、書店でなんとなく立ち読みした。なぜ受験に縁の無い成績の私が買ったのかわからないけれど、これに載ったら伝説の英雄、でも体操でオリンピック出るよりは簡単そうだと考えたようだが、これをきっかけに学問の神が憑依した。
360人中323位だった成績は、9月には3位に浮上、そして12月の模擬試験では1位になり、以後、学校内では圧倒的な大差をガンガン広げながら独走態勢。校内偏差値108ってのが出たのを覚えてるけど、一応計算すると同高校の標準的な生徒が5億人いたとして1位、ということになるんだろうか。
もっとも基礎が無さすぎたから高2の6月旺文社模試の国語小説の問題で手前味噌、大風呂敷、年齢がひと回り違う、の意味を答える問題で「家で作った味噌」
「とても大きな風呂敷」「10歳離れている」とお手本のような誤回答したのを覚えている。
中学3年間の内容なんて本気なら3ヶ月でマスターできる程度の内容しかなく、それをわざわざ3年もかけてやる理由は無くて本当に日本の学校教育は不効率だと思う。
しかし、完全に独学だったからえらく遠回りもした。基本を教えてくれる人がいれば結果は変わっていたはずだ。
学校の授業は全て内職、だから教員の皆様には反感を買い、孤立無援。強いて言えば体育関係の教員には好かれた(ちょっと体操部にいたし)。
当時、私の標語は「水面下から狙え東大」。さながらマリアナ海溝から孤立無援で富士山頂まで駆け上がるがごとし。高低差があればあるほど物語は面白いのだ。
得意なのは数学だった。英語を疲れたら数学やるみたいな。
数学が息抜き、ゲームみたいなもんだったかな。
当時、「勉強時間だけは一番を目指そう」と思ってたから 1日20時間とか勉強してた日もあった。 部屋の入り口に棒グラフが貼ってあって毎日勉強時間を記録つけていて当時の目標は一週間で100時間( 7日で割ると大体一日14時間ぐらいなんでさほど高いハードルではない)。
結果、二年浪人したが東大しか受けたことがないし、受けようと思ったこともない。
東大以外は1番じゃないという点で全て共通、3番でも5番でも10番でも大差ないからいったん下げてしまえば目標はどこまでも下がる。
自分さえ目標を下げれば学校、家族、周囲の誰もが満足するに十分な結果は出せただろう。まー、九州大学なら最難関突破、ということで私以外の学校・親戚・地元全ての人を満足させたことは想像に固くない。東大でなくても私以外のすべての人は大満足だったろう。
だからこそ、私は他の全ての選択肢を自ら絶った。
結果として、高3での受験時には、合格しても文句は言われないだろうレベルまでは行ったものの、結局手が出なかった。
代々木ゼミナール小倉校に在籍。
初めてみるラサール、灘のような受験有名高校の生徒がいて刺激になった。
通信教育を少しやったが小中高と塾には行ってない(家庭教師あるわけない)。正確には中2のとき、公文式に1ヶ月くらい通ったが1+4=みたいなメチャクチャ簡単な問題をメチャクチャたくさんやるっていうスタイルに馴染めずすぐに撤退。当時それなりの成績なら予備校のお代金はゼロが普通だったので授業料はほとんど払っていない。
だから私の東大入学までの生涯教育費って50万円もかかってない 。前述、学研の科学と学習に加え参考書と通信添削が少し、模擬試験代金、予備校までの交通費くらいではないだろうか。高校の授業料は月額1万円だったけど奨学金でチャラ。だから史上最低コストでの東大合格だと自信がある。しかも圧倒的最安値。テレビのワイドショーで有名私立中学に入学するまでの塾代が平均250万円という話があって、そうだとすると中学高校の授業料・塾代を含めると東大合格までの教育費は平均500万円で到底納まるわけがないから平均の10/1以下。
浪人が確定したタイミングで近所の 伝統派空手糸東流に入門。 週2回の練習が ほぼ唯一の運動 だったが1年9ヶ月での黒帯取得は当時圧倒的な最短記録だった。それまでの最短記録がコーチをしていた先生の2年半だったからたぶんこの記録は破られていない。
東大受験レベルになると得意科目の基準が変わってくる。
個人的には、模試の科目別優秀者に載るなら得意、載らないならまだまだ、という感じ。
ま、理Ⅲクラスになると科目別で100以内が得意科目とかになるんだろうか。
結局、3度目の受験で合格。スタートが低すぎたこともあるが、浪人時代でも着実に上昇を続けた。
全国模試総合1位2回というのは東大でも上位記録のはず。
↓ちなみに私の東大合格体験記(エール出版さん、掲載に問題あればご連絡ください)
ついでに、よくある東大論に関して
①東大生の親は金持ち(教育費を負担できないと東大は無理)
②東大生の親は東大生(要するに「学力は遺伝する」)
私見
まず、私の場合はいずれも正反対のポジションである。東大の寮にも同様の人はゴロゴロいた。
がこれは例外もあるじゃないか、というだけでミクロの話であって上記の傾向がある、というマクロの話を否定するものではないという主張に異議をとなえたい。
①まず、政治屋さんやら有名人やらを見ればわかる通り、金持ちのバカ息子は枚挙にいとまがない。
お金をかければかけるほど東大合格率が上がるかといえばそんなことはなく、目一杯教育費をかけたものの、受験産業のカモになっただけのほうが事例としては断然多い。
つまり、お金をかけて東大合格した人より、お金をかけたけど東大に縁がない人の方が圧倒的に多数。
経験上、「東大生の親は金持ち」の当てはまり率はせいぜい80%だが、「バカ医大の親は金持ち」は99%で圧倒的に高いはず。
だいたい、東大に合格する程度の人は自分一人で勉強するのが最も効率的だと知っている。塾だと、わかっていることも聞かされるので時間の無駄が多いが自分の弱い所をピンポイントで自分で理解できているから自分で参考書見るとか質問するだけでよい。そもそも受験産業のカモになる必要が無いはずなのだ。
②確かに、同級生をみる限り、親とか親類に東大卒がいた人は多い。
とはいえ、東大合格者の共通認識は、「高校の教科書が100%理解できていれば合格する」。
1歩譲って、学力が遺伝することを認めるとして、東大に合格する程度の学力で良ければ遺伝の影響は軽微、というのが私の結論。
何しろ、毎年3000人以上も合格者がいるわけで大したことない(あくまで成績だけの話)のもたくさんいた。
私の受験時代に比べれば今や生徒の数は半分、東大枠は横ばい、てんで楽勝。
上位層には人知を超えた連中がいるけども、個人的には理Ⅲの最下位なら凡人がギリギリ到達できるのではないかと。
大学時代
東京に来るまで、東大はめちゃくちゃ特別なところだから 社会からすごい優遇されてるんだと思ってた。
電車代はタダなんだろうとか真面目に思ってたのだか、ごく普通の扱いなのでがっかりだった。
授業料生活費は全て自分のアルバイトで稼いだ 。今は無き駒場寮は東大の敷地内にあり、 24畳の部屋に 3人暮らし、水光熱費込で月額4500円。
本郷に移ってからは 巣鴨と大塚の間にある 東大豊島寮 。月額6500円。これまたアルバイトはすごくやってた。
家庭教師・学習塾という東大生の定番はもちろん、引っ越し・カラオケ店・飲食店・レンタルビデオのようなよくあるバイトに加え、新宿の怪しい店にも出勤したことがある。
歌舞伎町のホストクラブに面接に行ったら、店長さんが開口一番、「キミ、向いてないと思うよ」と言い、「私もそう思います」とお応えし、謹んで業界事情を少し伺って帰ったことがあった。
長い時はお昼の12時半から6時半まで 渋谷の駅前ビル8階のビッグエコーで早番のアルバイト。終わったら2時間一人カラオケ(ヒトカラという言葉のない時代だけど)で歌声に磨きをかけ、そこから移動して夜の 9時から朝の6時まで新木場の 郵便局で ゆうパック荷物の仕分けがあって、朝の7時半ぐらいに家に帰ってきて 一瞬だけ寝て 9時から授業(授業中寝ちゃうんだけど )、そんな日もあった。
部活は少林寺拳法部に入った 東大の運動部の中で全国優勝とかしてる数少ない実績のある部だった。まあ競技人口が少ないとか大学から始める人が多くて スタートラインが同じなら 東大でも勝負になるということでボート部とかアメフト、ボディビルなんてのは東大でも強いよね。
かつて三島由紀夫は東大に入るメリットは東大の悪口を言えることだと語ったそうです。
実際、話のネタにはなるが、それだけ。毎日どれくらい勉強しました?という定番の質問には何度も答えた記憶があるが、基本的に合コン以外で「東大卒」が役立つことはあまりないというのが実感だ。
留年してはいるが一応在学中に公認会計士二次試験に合格。
正直に言えば、受験生のレベルからみて東大生にとっては簡単すぎて本気を出す気にならない試験。身の回りでも、専門学校に行ってはみたものの簡単すぎてツマラナイ、ということで途中で辞めちゃう東大生は少なくなかった。
社会人
なんとなく普通のサラリーマンは嫌だ、ということで 会計士をしてみたのだが 実は やることは 会計帳簿のチェック。四則演算より難しい問題は出て来ないので知的作業でもない。しかも扱いは全くのサラリーマン。
単純作業の繰り返しが多くて、どうにかならんかってことでエクセルVBAを覚えた。まあこれも独学だけれど、当時インターネットはかなり普及していて質問したら答えてくれる掲示板ってのがあり、かなりお世話になった。
より華やかな世界を求めて転職したのは三菱証券のM&Aアドバイザリーの部署。今でこそ、異業種からの転職組も多い世界だけれど私が転職した2004年当時は部署60人中、銀行・証券以外の出身は私以外ゼロだった。
企業の合併買収 についてお客様のニーズを聞いて提案するっていうやり方もあるんだけれど、私が好きだったのはゼロから自分の発案で 双方の会社に提案を持ち込むというスタイルだった 。
特に私は住宅設備業界 にすごく詳しくて 最大手メーカーの専務に「君、僕よりウチの商品に詳しいね」って言われた事があるし、当時松下電工によく行ってて「住設業界の M&A はキミ以外の話聞くのは時間の無駄やで」と言われたこともある。
ちなみに 女性向けフィットネスのカーブス、この会社が今あるのは僕のおかげだと信じているが、当の本人どう思ってらっしゃるだろうか。
ただ三菱は銀行色があまりに強く息苦しいと感じることが多々あってより自由を求めて日興証券に移籍した 。今は三井住友銀行の傘下だけれど当時は独立の証券会社だった。
3年ぐらいはM&Aやってたけれど当時は業界環境も悪くて景気も悪くてボーナスは全く期待したほどいかなかった。 残業代もないし ボーナスも当初の予定よりだいぶ少ない。
そんな折 日興証券は三井住友銀行に買収された。 M & A の部署には銀行員が大挙して押し寄せてきた。まあ、とにかく銀行員っていうのはお客じゃなくて上司の顔ばっかり見てるし、手柄は自分のおかげ、ミスは他人のせいにしたがるというこすい人種なので生理的に受け付けない。そこで銀行員がいなくて会計知識が生かせる事業承継の部署に異動した。
ここは上場会社の会長とか社長の相続対策を考えるという部署だった。資産管理会社を作るとか財団法人を作るとか海外に会社を作ってそこからどうすると税金がゼロになる、とか そんなことを考えていた。これは大企業とか一部の 富裕層 にだけ特化したビジネスになってしまうわけだが、そうではなくて、より多くの人に喜ばれる仕事をしたいと思ったのが独立の発端かしら。
携帯ゲームの会社が世界進出をしたいとか 、そんなお手伝いをしても世界中にバカが増えるだけじゃん東大卒がやることじゃない、なんてと思うと、俺のやってる仕事って何なんだ??と次第に疑問を感じるようになってきた。
このあたりで、生き方ってのを考え初め、これまでは周りに評価されるのはどの道かという視点で進路を決めてきたことに気づく。
自分で進路を選んできたように思っていたが実は周囲の顔色を伺って、他人の評価基準で進路を決められてきたということに気づいたのだった。最後まで気づかない人も少なからずいるので気づいたことは歓喜に値する。
SMBC日興証券を辞めたのが2014年7月。
当時在籍した資本業務部というところは、金融商品取引法のせいで誰も読まない分厚い書類を作る不毛な部署で毎日終電帰りが普通、という部署だった。
基本、カレンダーを見ながら指折り数える等の単調作業に膨大な時間を取られていることが分かったので、VBAで9割労力を圧縮する仕組みを作った。同僚には絶賛されたが残念ながら管理職はそうは考えない。
「エクセルは間違ってることがある」と一蹴された。バカやろ、間違ってるのは作ったヤツであってエクセルではない。
妻が2人目出産で入院していた時に2週間ほど、長女の送り迎えやら家事やらということで5時にそそくさと帰ることを余儀なくされた時期があった。その時に女部長から言われた一言で糸はプツンと切れた。
「いつになったら夜中まで働いてもらえるんですか?」
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ストレッチすると180度開脚します
自分の人生のシナリオを他人に委ねるな、ということで自分の道を自分で選ぶと決めた。
たとえたダマされたって俺はダマさない